2021.09
石遊庵 待合
千葉県市原市の住宅地にある石遊庵という茶室の腰掛待合を設計施工した。この茶室は住宅の一角に設えられていて、庭までは作られていたのだが、茶事の際に露路で客人が一時腰を掛けて亭主の呼びかけを待つためのスペース「腰掛待合」が無く望まれていた。施主である茶人は芸術大学で油画を学び、陶芸も嗜む趣味人で有り、呼吸をするように物作りのできる人であった。通常建築物は何かに使われる機能を持った器として、道具としての役割を期待される。特に住宅のように日常的に使われて、かつそれが無いと生きることもままならないような物の場合には、「遊び」の部分はあまり許容されない。そのため現代においては特に、設計にも施工にも素人が入り込む余地が限りなく排除され、身近な建築行為も資格や技能によって独占されている。一方で、もしそれが茶の湯という趣味の世界の建築物であったなら、その「遊び」こそが目的になり得るのではないだろうか。
庭師の武田屋作庭店が露路の拡張を行い、その上に腰掛待合を計画することになっていた。ランダムに感性で敷き詰められたレンガや瓦といった瓦礫が「こうあらねばならない」という固定観念を崩しありえた未来を作っていく、これに呼応するべく建屋の形態は三点で支えられた変形片流れとし、屋根には基礎工事時に掘り出された現場の土を練り込んだモルタルで包み込んだ。破風やケラバ面も包んでいるため縮小された茅葺き屋根の風情にもにて野趣あふれる仕上げとしている。撥水加工などは行わずに刷毛で少し撫でて凹凸を作り、湿気が残り苔生すことを期待している。屋根面は最奥の空間でと低くなり、必然的に頭を下げなければならない。躙り口のないこの茶室において、通常の茶事の設えではないが一度客人の関係性をフラットにする装置となることにも期待している。また、この斜めに口の開いた屋根によって、明らかに路地内での指向性が定められ、あたかも矢印によって方向が指示されているかのような効果が生まれている。そして、このモルタルと土という重たい物体が、華奢であるかないかわからない程度の柱によって浮かべられているものの中に身体を預けるという行為が、不安定さや不安から来る興奮となって茶事への期待を否が応にも高めてくれるのでは無いかと考えた。
また、この建屋はプロの職人ではなく、施工の得意な建築家と、物作りが得意な芸術家によるDIT(Do It Together)によって建てられている。規模が小さいことと電気や水道といった設備がないという腰掛待合であるからできることではあるが、もう少し一般化して考えると、既に建てられて機能している建築物がある状態で作る増築においては、生き死にに関わる喫緊の要請は発生せず、建物を建てるという行為自体を目的化することができるとも言えるのではないだろうか。建物を建てる、木を切る、削る、モルタルを練る、土を掘る、そして設える、一連の行為は人間が生きるうえでシェルターを獲得するために必要な行為であると同時に、外的対象に対して影響を与え、その手応えを感じることができる行為として、根源的な喜びを含んだものだろう。家が商品になって久しい現代において、これらの行為もまたワークショップなどの商品として消費せざるをえなくさせられ、選んで購入する以外は許されないかのような先入観を植え付けられている。しかし、これらの行為によって人は自分自身で環境を改変し、改善し、より良い状況を作ることができるという自信と誇りを持つことができるはずである。そして、必要な材料はそこら辺に転がっていることや、必要な道具は作り出すことができるという隠されてしまった最も基本的な原理に立ち返ることができる。また、作っている最中に計画を変更したくなったなら再検討し、手を動かしながら形状を変更することができるという当たり前を教授することができるのも、法律や機能の制約がとても少ない小さな建築物だからこそできたことだというのも、とても皮肉めいている。
絶対条件ではない、緊急性がない、そして自力でコントロールできるという余白であり遊びである小さな建築物を建てるという行為が、人間としての根源的欲求や失われたコンビビアリティを取り戻させてくれる一見マッチポンプ的ではあるが現代的な意味のある行為なのではないだろうか。
庭師の武田屋作庭店が露路の拡張を行い、その上に腰掛待合を計画することになっていた。ランダムに感性で敷き詰められたレンガや瓦といった瓦礫が「こうあらねばならない」という固定観念を崩しありえた未来を作っていく、これに呼応するべく建屋の形態は三点で支えられた変形片流れとし、屋根には基礎工事時に掘り出された現場の土を練り込んだモルタルで包み込んだ。破風やケラバ面も包んでいるため縮小された茅葺き屋根の風情にもにて野趣あふれる仕上げとしている。撥水加工などは行わずに刷毛で少し撫でて凹凸を作り、湿気が残り苔生すことを期待している。屋根面は最奥の空間でと低くなり、必然的に頭を下げなければならない。躙り口のないこの茶室において、通常の茶事の設えではないが一度客人の関係性をフラットにする装置となることにも期待している。また、この斜めに口の開いた屋根によって、明らかに路地内での指向性が定められ、あたかも矢印によって方向が指示されているかのような効果が生まれている。そして、このモルタルと土という重たい物体が、華奢であるかないかわからない程度の柱によって浮かべられているものの中に身体を預けるという行為が、不安定さや不安から来る興奮となって茶事への期待を否が応にも高めてくれるのでは無いかと考えた。
また、この建屋はプロの職人ではなく、施工の得意な建築家と、物作りが得意な芸術家によるDIT(Do It Together)によって建てられている。規模が小さいことと電気や水道といった設備がないという腰掛待合であるからできることではあるが、もう少し一般化して考えると、既に建てられて機能している建築物がある状態で作る増築においては、生き死にに関わる喫緊の要請は発生せず、建物を建てるという行為自体を目的化することができるとも言えるのではないだろうか。建物を建てる、木を切る、削る、モルタルを練る、土を掘る、そして設える、一連の行為は人間が生きるうえでシェルターを獲得するために必要な行為であると同時に、外的対象に対して影響を与え、その手応えを感じることができる行為として、根源的な喜びを含んだものだろう。家が商品になって久しい現代において、これらの行為もまたワークショップなどの商品として消費せざるをえなくさせられ、選んで購入する以外は許されないかのような先入観を植え付けられている。しかし、これらの行為によって人は自分自身で環境を改変し、改善し、より良い状況を作ることができるという自信と誇りを持つことができるはずである。そして、必要な材料はそこら辺に転がっていることや、必要な道具は作り出すことができるという隠されてしまった最も基本的な原理に立ち返ることができる。また、作っている最中に計画を変更したくなったなら再検討し、手を動かしながら形状を変更することができるという当たり前を教授することができるのも、法律や機能の制約がとても少ない小さな建築物だからこそできたことだというのも、とても皮肉めいている。
絶対条件ではない、緊急性がない、そして自力でコントロールできるという余白であり遊びである小さな建築物を建てるという行為が、人間としての根源的欲求や失われたコンビビアリティを取り戻させてくれる一見マッチポンプ的ではあるが現代的な意味のある行為なのではないだろうか。
Photo : 千葉正人













