KOUGAI DANCHI OF TOMORROW

明日の郊外団地に寄せて

明日の郊外団地に寄せて

 こうして第二世代に選ばれなかったために廃れてしまった郊外戸建団地なのだが、外から新しい住人が流入する可能性はないのだろうか。都市部に比較しての利点は実のところたくさんあるように思われる。廃れている土地であるために土地がとても安く手に入る場所が多いことが、すぐに挙げることのできる第一の利点だろう。例えば、東京都内の有名な住宅地である世田谷区や杉並区などで土地を探そうとすれば、30坪弱の土地で3千万円を下ることはない。もしそんな土地があれば、再建築不可能であったり、借地であったりと、何かしらの条件がついてくる。これは東京駅の東側でも同じで、比較的戸建住宅が多くなる葛飾区、江戸川区などでも土地だけで2千万、3千万は当たり前の状況だ。これに加えて都心部であれば住宅が密集しているために建築条件も厳しい場所が多く、防火関連規定やそもそも建設する際に隣戸との距離や重機が入らない等の難条件での工事になる可能性も高い。または、多くの場合には工事の職人さん達の諸経費としてコインパーキングの利用が必須であったり、ゴミ処理なども敷地内で溜め置けないために一日の工事時間が後片付けに余分に使われたりして割高になってしまう。こうして基本的な住宅建設の坪単価が1坪70万円くらいになってしまうとすると、延床面積35坪の住宅を建てると、これだけで戸建住宅を購入するのに6千万円という額がすぐに見えてきてしまう。現在のとても低い住宅ローン金利(0.475%三井住友銀行参照 2020/05/08)でも、35年間の支払いで一月17万円近くになってしまう。これを廃れかけた郊外戸建団地で考えた際には、50坪の土地が100-300万円で手に入る。これに同じように35坪の家を建てるのだが、基本的な坪単価は60万円ほどですむので、2,100万円となって、諸経費を含めたとしても2,500万円で新築住宅が手に入る。同じ条件の住宅ローンであれば、一月7万円弱の支払いになるため、年間で120万円の開きが出てくる。これは単純に生活コストが安くすむという利点なのだが、年収が600万円の世帯と、380万円の世帯が、住む場所によって生活レベルが全く同じになってしまうということでもある。もちろんこのために都市部ではマンションなどを3-4千万円ほどで買って暮らしている世帯も多いのだが、いずれにせよ狭くて高い家を買って都市部に居続けるということは金銭的にも環境的にもわざわざ不利な条件を選んでいるだけともいえるだろう。そして、これは東京都内に限った話ではなく、千葉や神奈川、埼玉の東京に接している地域においても同様で、千葉であれば船橋市くらいまでは都内でもないのに5-6千万の家というものを見かけることができる。

 また、自然の近くで暮らすという面においても、郊外戸建団地は都市部と比べてとても有利である。そもそも都市部では住宅などの建物の中に公園などの緑があるという状況だが、森や林、田んぼや畑、海や川などの中に作られた住宅地が郊外戸建団地であるので、団地内から一歩出れば、そこには田んぼが広がっていて、春の田植え、夏には稲穂が揺れ、秋の稲刈り、冬のあぜ道から季節を感じることができる。裏山の新緑や紅葉もそうだが、人間が根源的に求める豊かさを自然が提供してくれている。魚釣りや竹の子掘り、栗拾い、キャンプ、BBQ、アウトドアでのアクティビティもまた、とても近くで堪能することができる。そして、庭や空き地など広いスペースがあるため、日曜大工や家庭菜園などのもの作りをすることも特別なことではなく満喫することができる。想像してみてもらいたい、ある夏の暑い日、残業が終わって満員の地下鉄に揺られて帰る。窓の開けられない風呂でシャワーを浴びて出てくると、90cmほどの奥行きのベランダに出て道路を挟んですぐ側にある向かいの家の壁を前にして真っ暗な空を見上げながら室外機の熱気を感じてビールを飲む。リビングにはどこかで子供が買ってきたカブト虫がガサゴソと動いているかと思えば、机の上には携帯ゲーム機が散乱している。次の休みにはショッピングモールでどこにでもあるファストファッションの服を買い、どこにでもあるファストフードを食べる。たまの連休には2時間くらい電車に揺られて海や山にわざわざ遊びにいき、また2時間ほどかけて帰り、疲れたままの身体で休み明けの仕事へと向かう。もしも、これが郊外戸建団地であれば、残業しても30分ほどで家に着き、窓の大きな風呂にゆっくりと入り、広いウッドデッキでリクライニングチェアに寝そべりながら子供が昼間に使ったビニールプールに冷たい水をはり、足をつけながら冷えたビールと庭で採れたての枝豆をつまむ。明日の休みには作りかけの屋外用テーブルを子供達と完成させる予定で、夕方には友達家族を呼んでBBQパーティーをする。こうして考えると、生活をするのに郊外戸建団地は誰が見ても都市部よりも優れているように考えられるはずなのだが、実際には多くの人達が都市部に暮らすことを選んでいる。

 現在郊外よりも都市が選ばれている根本的な原因は、郊外のコストパフォーマンスの悪さに他ならないのではないだろうか。ここまで郊外は都市よりも素晴らしいと主張しておきながら矛盾があるように思えるのだが、ここまでに主張してきたものは郊外の表面的な利点もしくは理想的な姿であって、現実はこの利点をまるで相殺するかのような事態が起こっている。住宅取得のためのコストが大幅に低いにも関わらずそれを上回る不利益や不具合があるのである。

 まず第一に土地の狭さが挙げられる。確かに空き地も多く坪単価も安いのだが、区画されて売られている単位がだいたい50-70坪である。50坪程度であれば東京都内でない限りは都市部でも確保可能な規模で、取り立てて大きいとはいえないとても一般的な広さなのだ。空き地がたくさんあるのだから、土地の坪単価が安いのだから、そもそも広い土地がたくさん余っているのだから、都市部の2倍3倍の大きさの土地が売られていそうなものだが、郊外の持つ最大の利点であるスペースのゆとりはこの不動産市場による通念という謎のシステムによって目に見えない枠組みを与えられて消し去られてしまっている。つまり、ごみごみした都市部に辟易したある一家が、自然に近く密度の低い郊外戸建団地を満喫しようと100-200坪という都市部ではなかなか手に入らない広さの土地を買おうと希望したとしても、不動産市場にそもそもそんな土地は出てこないのである。もちろん広い土地はあるのだが、住宅地ではなくて古くからある集落の中や山林のようなものが大半で住宅地としての利点は享受できない。少なくとも、都市での暮らしの長い人達が移り住むための、ある程度整備された住宅地としての広くて快適な土地というのは、郊外と聞いて皆が想像するイメージかもしれないが、実際には存在しないし、そんなものはユートピアのような物件でしかないのが実情である。

 次に、建てる家の大きさが驚くほどには大きくないということが挙げられるだろう。日本で一番密度が高い東京都内でも30坪くらいの家は珍しくない。つまり、都市部でも郊外だとしても、家の広さの違いは1-2部屋程度でしかない。もしこの面積をリビングルームに使えばとても広々としてこれぞ郊外といったものになるだろう。しかし、それぞれの部屋は6-8畳程度であることは変わらないし、風呂が1坪であることはどこかにそんな決まりがあるかのようにこぞって皆同じ空間になってしまっている。もちろんそれぞれの部屋を畳2枚分ずつ広くすることも可能だが、そうした場合にはもちろん、リビングやダイニングは東京都内のペンシルハウスと全く同じ広さになる。これは建設費用と世帯所得が影響してくるのだが、前者はどんな場所だろうと倍や半額になるようなことはあまり考えられない。日本全体の経済構造の問題も大きいのだが、日本の自動車メーカーが人件費の安い国で生産をするような賃金格差もなく、もちろん同じ円の中での経済なので海外でブランド品を割安に買うような為替的なこともあり得ない。また、資材の物価も、大手商社を通して輸入材料であるベニヤやSPF材またはセメントなどを購入したり、大手メーカーが海外生産した建材やそもそも材料が輸入されている建材を中間卸業者を通して工務店が購入するために、地域的な差がほとんど出ない。むしろ都市部から離れている離島や流通の薄い地域の場合には送料が割り増しされて高くつくこともある。そして、農村や漁村ではない郊外戸建団地を購入するような地方のサラリーマンや会社に雇われている労働者世帯の場合には、都市部のそれよりも世帯所得が低い。そこでせっかく安く土地を手に入れたとしても倍の大きさの家を建てるほどに予算があるわけでもなく、賃貸アパートや育った環境などの経験や先入観として必要最低限の広さである35坪前後の住宅を建てることになる。しかも、土地が50-70坪程度であれば20坪ほどの建築面積で家を建ててちょうどいい庭の広さのため、それ以上に大きな家を建てようという動機が働かないだろう。

 また、家の質や性能またはデザインに関していえばどこで建てたとしてもハウスメーカーや工務店に任せたとすれば、外観も内観も設備機器もその他の使われている建材もおおよそ同じものになってしまう。これは風呂場を想像すれば簡単に想像できると思われるのだが、ユニットバスが主流である現在の住宅であれば、都市部であろうと郊外であろうと、場所の違いに関わらず全く違う持ち主の全く違う家の一部屋が、床壁天井どの部位のどこをとっても丸ごと寸分違わず全く同じ空間という事態が起こったとしても不思議ではない。これは建材がメーカーによる既製品から選択することが当たり前になっていることと、さらに便器、床材、壁紙、建具などの各種類毎に2-3の大手メーカーしか建設業者から選択肢が用意されていないために地方差はほとんど見受けられない。そして、それぞれのメーカーは機能も仕様もほぼ同じ製品をラインナップさせることが義務であるかのように流通させているので、カタログの構成すらもほとんど同じでロゴだけ違うという状況である。彼らの作っている仕組みは、建材毎の置き換えはとても簡単であるため建設業者にとってはとても利便性が高いのだが、結果としてどのメーカーを選んだとしても大きな違いのない家が出来上がることになってしまう。

 建材だけでなく家のつくりにもこれと同じことが起こっている。そもそも建築士試験の製図課題で要求される平面図は、南側にリビングルームを設定したら庭を続け、北側には水廻りを配置することが正解とされる。そして、2730mm、3640mm、4550mmという尺間のモジュールで部屋の長辺と短辺を決めることで構造的な問題をある程度経験則だけで決定できるようになっているので、部屋の大きさも形もほとんど同じである。台形の平面形状や自由曲線の壁などは論外で、極端に細長い空間も10m角のリビングといったすごく大きな空間というものも存在しない。そして2400mmの石膏ボードを一枚はることで天井高さが決められれば、立体の空間としても全く同じになってしまう。こうして間取りも立面も、環境の大きく違うはずの都市部にも郊外にも同じ家が出来上がってしまうのだ。ハウスメーカーという仕組みがこれを助長している側面も大きく影響しているだろう。住宅を商品としてパッケージ化することで設計と管理を簡略化することで、建設業者側としてのコスト削減と効率化を押し進めることに成功している。これを地方の中堅ハウスメーカーも模倣し、最終的には小さな工務店までが同じような仕組みで住宅を提案することで現在の分譲宅地の景観が作られることになってしまうのだ。

 そして、土地や建物のハード面の他にもソフト面で不利な点もいくつかある。郊外での生活を考える上ですぐに出てくる不満点は不便であることだろう。衛生的で効率的であることが絶対的な価値となってしまった現在の日本では、不便であることは悪以外のなにものでもない。これは生活の場所として郊外戸建団地での生活をイメージするにあたってとても大きな問題となる。

 不便といえば交通や移動だろう。郊外戸建団地周辺の交通手段の選択肢はとても少ない。挙げようと思えば、徒歩、自転車、自動車、バス、鉄道、タクシーなどを挙げることができるのだが、実際的に苦痛がない範囲で利用することができるものとすれば自動車一択に限られるのではないだろうか。もちろん基本的な移動手段として徒歩と自転車は選べるのだが、そもそもこの二つで移動できる範囲には目的地がとても少ない。子供が通う小学校ですら徒歩で20-30分ほどかかることがしばしばで、中学校ともなると自転車で20-30分かかる場合も多い。もちろん雨が降ればびしょぬれになってしまう距離で、忘れ物をとりに帰るには絶望的である。最寄りのコンビニエンスストアには自転車で10-15分だとしても、実は郊外戸建団地は既存の農地を避けて丘や林を切り開いている場合が多く○○台や○○が丘という名前が付けられている通りに坂だらけである。通風や採光には好都合なこの環境は、自転車となると行きが10分だった道中を帰りには20分かけて、しかもとても疲れるというおまけまでつけてくれることになる。通常坂の上に住宅があることが多いので、通勤通学でも疲れて帰ってきた帰り道が過酷な坂道であったり長くゆるやかな上り坂を永遠と漕ぎ続けなければならない。バスも団地内を走っていれば恵まれている方で、最寄りの幹線道路である国道や大きな県道まで徒歩で5-10分かけて出なければ利用することができない立地にある団地も多く見かけられる。また、バス路線が団地内に設定されている場合にも、時刻表は1時間に2-3本来ればいい方で、通勤通学以外の時間帯にはバスが来ない場合もある。最終便もとても早く、とても働き盛りや遊び盛りの世代の要求に耐えられるようなものではない。鉄道に関しても、単線の私鉄ローカル鉄道であればバスと同じような状況であり、JRであっても地方路線の最終便はとても早く終わってしまう。また、バスも鉄道も利用料金が都市部のそれと比べると高いことが多いため、定期券を持っている場合は別にしても、都度利用する場合には大きな出費となってしまう。そして、タクシーは流しがほぼ皆無であるため迎えにきてもらうことも考えればかなり割高になってしまう。そもそもバス等と比べれば数倍の金額であるためはじめから選択肢には入らない。

また、買い物をする場合にも選択肢がとても狭く、欲しいものはたいがい遠方にしかないといった経済的な要因から来る不便さもある。徒歩や自転車圏内に商業地域がある場合には恵まれている方で、日用雑貨から衣服や図書などが手に入る商店街は自動車でしか行けないことが多い。そして、その商店街またはショッピングモールで利用できる店舗はどこに行ってもほとんど変わらず、大手ファストファッション、大手ファストフード、大手スーパー、大手書店、これらの店舗が全く同じ商品を陳列しているのでどこに行こうと結局手に入るものは全く同じである。このため、少しでも特殊、または変わったものが欲しい、さらには高価だったりかしこまった特別なものが必要となれば、都市部へ出て行かなければならない。例えば、趣味の旅行に関する書籍を近所の商店街の書店へ探しにいくとする。国内であれば京都や北海道、海外であればハワイなどの関連雑誌は手に入るが、アートトリエンナーレや地方にある最新のクラフトビールを回る旅や、北欧関連の書籍等は数年前のものが1冊あったら良い方だろう。また、少なくとも同じファストファッションの店舗は利用できて都市部との差がないはずなのだが、そのブランドのラインナップを全ておいてある郊外店舗は少ない。例えばXL、XSサイズの商品は地方都市のデパートにある店舗にだけ全種類がおいてあって、郊外にある店舗にはLサイズまでしかなかったり、期間限定で販売される有名ブランドとのコラボレーション商品はそもそも郊外店舗では取扱いがなかったりなど、とにかく郊外という場所は経済性を優先させると、大きくも小さくもなく、人と同じものだけが欲しい、平均的な人たちだけが住んでいる場所と定義されてしまうようである。

 買い物に選択肢がないのであれば、もちろん遊びにも選択肢が少ない。例えば、友達とお茶をする場所といえばチェーンのファストフード店かファミリーレストランで、その際には100円のコーヒーか大手飲料メーカーの炭酸飲料を飲み続けるかのどちらかだ。知的好奇心を満足させるような場所の選択肢は特に少なく、時間が空いた時にできることといえば漫画喫茶、ゲームセンター、ボウリングやビリヤードなどが集まった遊技場か、大人であればパチンコくらいのものなのだ。芸術やエンターテイメントに関しても選択肢はとても狭く、その典型的なものとすれば映画だろう。映画は基本的にショッピングモールに併設されているシネマコンプレックスでしか観ることはできない。そして、その配給内容は数十キロ圏内のシネマコンプレックスを回ってみたところで、娯楽ハリウッド映画かアニメ、または人気俳優が出ている日本映画が全く同じラインナップで上映されているだけである。例えば、美術館で最新の現代アートを鑑賞することも、好きな歌手やアイドルのコンサートに行くことも、お笑い芸人のライブやミュージカル、演劇を鑑賞することも、その全てが郊外で享受することは不可能である。

 この不便さに付随する選択肢の無さは、いつの間にか郊外を作る側である自治体や建設業者、不動産開発業者、またはショッピングモールなどを運営する会社にとって最大限に都合がよく利益を最大化または業務のコストを最小化するための工夫によって、仕組みも外観も日本中どこへ行っても見たことがある郊外が存在するという異様な光景や状況が作り出されてきたことによる。そして、この多様性のなさが、郊外と都市部との人の流れを決定もしているのだ。つまり、郊外に住んでいる人々はその他の場所にある郊外周辺が自分たちの住んでいる場所とほとんど変わらないことを知っている。このため郊外間での移動は起こらずに、仕事においても余暇においても郊外から都市部へと人が移動する一方通行を作り出す。都市部はこうして集まってくる郊外の人々の経済力を目当てに新しいコンテンツを常に更新し続けることができるが、郊外へ人は来ないため新しいものは生まれずに常に安定した普遍的需要のあるものだけが扱われる。この循環はさらに郊外の多様性を失わせ、さらには郊外への人々の期待も奪い取ることになる。どうせどこへ行っても同じ、どうせ近所で買えるものに良いものはない。この期待値の低減は自らの住んでいる場所に対するアイデンティティや自尊心もどんどんと低下させていく。地域に対して自尊心を失うことで地域活動や地域でのイベントなどへの住人達のコミットがどんどん減っていくことになり、人的にも金銭的にもリソースのない地域の行事は規模がどんどん小さくなり、内容もどんどん簡素化、陳腐化していくことになる。こうしてさらに地域で手に入る体験やそもそもその場所、つまり郊外はつまらなく流行遅れでかっこ悪く、品質も悪ければ評価も低くく、価値もない、都市部が良い場所で郊外は悪い場所という暗黙の了解ができあがる。そして、都市は魅力にあふれていて、郊外は魅力のない場所、都市は全ての人に開かれていて、郊外は住んでいる人達だけの場所、そんな二項対立としての認識が蔓延することとなる。

 果たして郊外はそんな場所なのだろうか

 都市部と比べた時に確かに郊外はその選択肢のなさや物の量などにおいて劣っていることは明らかで疑問の余地はないだろう。しかし、それはその全てを消費しきったり、その全てを使う人にとってはという限定がつくのではないだろうか。果たして誰が毎日終電を気にするほどに遅くまで仕事をするのだろうか。または、誰が毎週末に美術館に行く必要があるのだろうか。一つ一つの項目をしっかりと検討していくと、もしかしたら郊外は決して不便な場所ではないと言えるのではないだろうか。

 まずは交通手段。そもそも自動車で全ての場所に行くことができるのであれば、その他の交通手段は必要ないと言えないだろうか。その他の交通手段を使うことができる都市部の人々からすれば自分たちよりも選択肢が少ないということで劣っていると言いたくなるのだろう。しかし、自動車で移動することの何がいけないのだろうか。もちろん十数年前までは排ガスの問題も深刻だったろう。しかし、現在は完全に電気のみで走行する自動車もあり、ハイブリッド車も普及してきている。燃費が5-6km/lだった頃から比べれば最低でも2倍くらいには走行距離も伸びているはずである。これは税金の仕組み上郊外で排気量の少ない軽自動車の人気が高いことを考えればなおさらで、東京都内以外の地方都市における公共交通機関の不便さを考えれば、逆に全ての大人が1台ずつ車を持っている郊外の方が、移動に関しては便利なのではないだろうか。例えば、友人の家に遊びに行く場合を考えてみる。関東の地方都市の中央駅から3つめの駅の周辺に住んでいるのなら、家から駅まで徒歩で10分、駅の階段を上って改札でチャージをしてプラットホームまでたどり着くまでに5分。5分ほど電車を待って中央駅まで10分。乗り換えのために10分で友人宅のある駅までもう5分。友人宅まで駅から徒歩で5分。これで、20kmほど離れている場所までたどり着くまで1時間近くかかることになる。それでは自動車の場合はというと、20kmであれば平均時速40km/hで走ったとしても30分で直接友人宅までいくことができる。もしこれが、子供を連れている場合やペットと一緒の場合、友人にお裾分けする実家から送ってきた野菜やいらなくなった子供服など大きな荷物を持っていくこと等も想定すれば、自動車での移動の方が便利なことは明らかだろう。特に地方における都市部では、結局のところ車を持っていなければ生活が成り立たないので、普段の移動は公共交通機関を使う人でも、車の維持管理費がかかってしまうことは変わらない。しかも、古くからの道等も多く残っているため、大きな車では交互通行しにくい、または自宅の前が一方通行路の場合などとても運転しにくい状況であったり、郊外よりも5-10坪ほど土地が狭い場合には車を駐車するスペースもかなり狭くなり運転技術が要求される。

 そうなると、買い物の環境はどうだろうか。普通の物しかないということは、少なくとも普通の物はあるということではないだろうか。そして現在の流行からすれば、日本を代表する繁華街である銀座の大通りにファストファッションの旗艦店が建ち並んでいること、コンビニエンスストアの品揃えは日本全国どこへ行っても全く同じであることからすれば、それが東京都内だろうと地方都市の郊外だろうと、本当に特別な物以外は日本中どこででも同じ物が手に入る環境にあるということではないだろうか。毎月毎週ブランド品ばかりを買うわけでもないのだから、実のところ所得的に変わらない人ならば、銀座を歩いていようと郊外のショッピングモールを歩いていようと買える物や必要な物はあまり変わらないはずである。丈夫で長持ちする3足千円の靴下、学校用に必要な5冊で300円の大学ノート、安売りで1本200円の洗濯洗剤と柔軟剤、そして世界的に大ヒットしている誰もが待ち望むあのスマートフォンの最新バージョン。これらは全て、日本全国どこでも全く同じ物が手に入る。そして、日本に暮らす一般といわれる大部分の人々の生活はこれらが購入できるのであれば事足りる。ブランド物の限定バッグ、高価な万年筆、オーガニックのシャンプー、そして、あのスマートなパソコンの最新バージョンやタブレットの新シリーズは年に数回都市部に出かければいい。どうせそれらを毎月毎週購入していたら破産してしまうのだから。

 文化的な活動についてはどうやら郊外は確かに都市部と比べて見劣りするところがだいぶあるようだ。毎日どこかでコンサートやライブ、または芸術家の個展が開かれているということはない。ましてや舞台芸術や映画等はかなり不利なのだが、それらはそもそも一時の楽しみであり特別な物なのだから、日々の暮らしを営むための郊外に必要な物ではないのだろう。例えば、東京都内に住んでいたってロサンゼルスのインディーバンドや、ニューヨークを拠点にしているアーティストの作品がお気に入りのライブハウスやギャラリーで楽しめるわけではないのだ。これは毎日一流のフランス料理のフルコースを食べられることが素晴らしいかどうかということと似ている。文化とはその場所によって成り立つものなのだから、ブロードウェイミュージカルが下北沢で行われないこと、新宿のオペラシティでパンクバンドがライブをしないこと、明治座で吉本新喜劇を上演しないこと、これらと同じ理由で郊外には東京にあるような文化芸術が堪能できないのだ。しかし、それだけのものであれば地方都市も郊外と大差はない。つまり、文化芸術はとても限られた場所性によって立っているため、郊外には展開されない。もしくは、郊外の場所性と呼応した文化芸術が起こるはずである。実際、郊外の若者にはアメリカのグラフィティ文化に憧れたストリートアートや、近くの農家の古民家、ローカル鉄道ののどかな風景、高い建物のない住宅地など、その文化芸術の作品がなかったとしても、その題材となるものはたくさんあふれている。そして、実際のところ、日本全国至る所に図書館、公民館、文化会館、コンサートホールなどの文化施設が一自治体一セットで揃っている。つまり、消費をする人々ではなく、真にクリエイティブで文化的な人々にとってみれば、どの郊外も文化的活動をするための環境が整った素晴らしい場所だと言えないだろうか。雑誌の最新刊も最新の小説も無料で読め、インターネット環境も視聴覚環境も整っている。映画の上映会やブックサークルなどを行うセミナールームだってある。最寄りの図書館に蔵書がなくても、たいがいは市内の図書館ネットワークから取り寄せることも可能だ。ダンスのサークルのための練習スタジオや書道教室のための和室、茶道のお稽古のための茶室だってある。美術サークルのための展示会をメインロビーで行うことも、陶芸教室のための電気釡も信じられないほど安い金額で数時間借りることもできる。近頃Fabが流行っているが、実際のところ公民館の工作室との違いは3Dプリンターやレーザーカッターだけじゃないだろうか。もちろんピアノの発表会も素晴らしい音響のホールで演奏できるし、合唱も演劇もミュージカルもできるような立派なホールがあるところも少なくない。これをその施設の自治体の人口で比較すれば、一人当たりに割り当てられた文化施設の利用時間は実のところ郊外の方が都市部のそれよりも断然多いはずである。

 こうして考えると、さすがに郊外は住むことに特化して作られてきた場所であるため、生活をするという視点から見てみればとても充実して環境の整った素晴らしい場所だと言えるのではないだろうか。郊外は交通機関の最終便を逃してもタクシーで帰ることができる。1時間に1本しかこないバスを乗り過ごしてしまっても約束の時間を遅らせることができる。今日やらないといけない仕事なんてそんなにないのだから明日になってしまってもかまわない。明日学校で必要な道具があったけど揃え忘れていたから人に借りれば良い。そもそもそんなことにならないように2週間前から街に出た時に準備してある。忘れ物がないように常に気をつけている。何か困ったことがあったら助け合う手間を惜しまない。こんな考え方や生活ができるのであれば、郊外は全然不便な場所ではない。それではなぜ、特に都市部を無自覚に無批判に選んでいる人々は、郊外を不便で選ぶべきではないと思っているのだろうか。それは、郊外の不便さがつまり、全ての事柄においての余裕のなさに他ならないのではないだろうか。この余裕、余分という点で郊外と都市部の環境を捉え直してみる。まず交通手段。どちらにも公共交通機関はあるし、最寄り駅や最寄りのバス停までの距離も実際のところあまり変わらない。しかし、選択肢となると都市部では地下鉄、JR、市バス、私バス、自転車、タクシーこれらのそれぞれに最短ルートから最安ルートまで、しかも乗り過ごしても早く出てしまっても、10分後、10分前のルートまで無限に選ぶことができるが、郊外では徒歩、バス、鉄道であればそれらのルートは一つだけで、しかも乗り過ごすことができない唯一のルートである。結果として目的地に目的の時間に公共交通機関を使ってたどり着くことができることに全く違いはないのだが、可能性という決し使うことはないかもしれないがもし万が一何かあっても大丈夫という余裕があるかないか。郊外はこの余裕がないのである。つまり、もし郊外を楽しくポジティブに捉えて選択するという場合には、暮らす人の側に余裕が求められるということなのだろう。乗り遅れないように前もって準備する。雨が降っても大丈夫なように常に鞄にカッパを入れておく。コンビニがなくてもいいように出かける前には必ずトイレに行っておく。買い忘れのないようにメモを作ってから買い物に行く。そして、予定通りに行かなくても人生が終わるわけではないと考える。そんな価値観を持ち合わせることができたとしたら、都市でできて郊外でできないことは決してない。人から提供される環境を消費するだけの人生を送ろうとしているような怠け者や搾取されるだけの存在で良いのであれば、世界の奴隷として死んでいくのであればもちろん都市は最高の場所だろう。しかし、ちゃんとした生活や暮らしを送りたい、自分の人生は自分で決めて自らの足で歩みたいと考える人であれば、郊外を選ぶことができ、郊外の持つゆとりや豊かさを享受することができるのではないだろうか。

 本来ならば郊外は住む人を選んだとしても豊かな暮らしを与えてくれる素晴らしい場所ではあるのだが、現実は少し状況が違っているのも確かである。一つの問題点は、郊外を住みこなすことができる人達が少なく、多くは都市部を選んでいる人達と同じ感覚で無自覚無批判に郊外を選んだだけの人達が暮らしていることであり、もう一つは豊かで暮らしやすいはずの郊外をあえて暮らしにくくしている、行政や街を作っている人々の向上心のなさを挙げなければいけないだろう。

 郊外に現在住んでいる人々がなぜそこに住んでいるのかと問われれば、次のようなパターンの答えが返ってくるだろう。1.ここ(郊外戸建団地)が地元だから。2.結婚した相手の地元だから。3.就職した場所に近いから。郊外戸建団地の第二世代にとって、地元である場合や、結婚相手が郊外戸建団地の第二世代で実家の近所に住むことまたは二世帯同居を希望した場合、または出身地に関係なく就職した場所が例えば臨海工業地域の工場で、今後の転職が考えにくいために職場近くに居を構えた場合といった具合だ。また、第一世代ではこれらに加えて、4.都市部では住宅が買えないためしかたなく、5.実家が近隣の農家だが長男が家を継ぐので次男以降である場合に地元で家を持ちたかった、などのような事情がある。基本的にはこのような受動的な要素をもとにして郊外を選んでいる人達が多く、郊外での暮らしに憧れた場合や、郊外での暮らしを求めてやってきた人はごく一部ではないだろうか。この場合、多くの妥協とともに現在の住居に落ち着いているパターンが多く、スマートでスタイリッシュな都市での暮らしに憧れていたり、ステータスとしてタワーマンションでの暮らしを望んで集まっていたりする人々とは対照的である。そもそも場所の選択肢がとても狭いため、選ぶことのできる不動産物件がとても少ない。郊外は都市計画区域の中でも調整区域とされている場所も多いため、地元周辺で住宅街として開発されている場所となると数カ所しかなくなってしまう。さらに、その中の区画割りも画一的で選択肢等は無いに等しい。50-70坪の四角い区画が並んでいるだけのため、その中で角か大通りに数十メートルだけ近いか遠いかの違いにしかならない。このため、100坪の土地、自然に囲まれて隣地が離れている、高台で眺めがいい、水辺に面している、広くてきれいな公園が徒歩圏内にあるなど、自然豊かな郊外の生活で享受できそうな条件を求めたとたんに候補地がなくなってしまう。つまり、そんな条件の土地は実のところ郊外住宅地にはほとんど存在しないからだ。こうして、列挙した理想の条件をどんどん削っていき、消去法で残った1-2件の物件の中から選ぶことになる。こうなるともちろん物件の値段にも相場が決まっているため、同じ住宅地で坪単価にほとんど違いはない。比較的新しく作られた住宅地の50坪で1000万円の土地を選ぶか、それとも30-40年前に作られたところの50坪300万円の土地を選ぶかのどちらかということになる。多くの若い世代の多くは前者を選ぶことになるため実質的には1択である。そして、坪単価50-60万円くらいで家を建てることとなるのだが、予算3000万円のうちすでに1000万円を使ってしまっているため、残りの2000万円で建てられる家は平均すると35坪前後ということに自然と落ち着いてくるのである。そして、家族構成が4人前後の夫婦とその子供であるため、リビング12畳、ダイニング6畳、キッチン4畳、風呂2畳、洗面脱衣室2畳、トイレ1畳を二箇所、玄関2畳、階段室2畳、寝室8畳を3室、廊下4畳これが必要最低限の空間となるため、すでに30坪分が動かしようのない状態である。つまり、皆この現実を自然と受け入れてしまっているのだが、郊外に予算3000万円で35坪の家を買おうとしている3-4人の20後半から30代の核家族にとって、自分の家であるにも関わらず選択の余地はたったの5坪分だけなのだ。5坪と言えば10畳である。リビングを少し広げる、キッチンを大きくする、風呂を少し大きくする、またはもう一部屋作る。この事実を覆い隠すかのように外壁や内壁の模様は偽物の型押しから何十種類も選べるようになっているため、郊外戸建団地は統一性も主義主張もない謎のレンガ風外壁や、謎のコンクリート打ち放しふう壁紙によって彩られているのだろう。こうして、郊外戸建団地に住む人々は受動的な条件によって選択をさせられることで無批判にならざるを得ないか、もしくは主体的に選択をしているような錯覚をしながら無自覚に作り込まれた条件に囲い込まれていくのである。

 こうした人々が声を上げないからなのか、それとも彼らをただ搾取することが目的だからなのか、行政側としても郊外をより暮らしやすく、より快適にしていこうという努力はほとんどなされないことが郊外のもう一つの問題点である。住宅地とて万能ではなく絶対的な物ではない。作った当初はよかれと思われたものが、時代を経て需要や要求に合わなくなってくることや、作った当初にはかなえられなかった仕組みや機能が求められることもある。しかし、これらに答えることを優先せずに、新しく申請される開発の許可を与え続けることに多くの予算と時間を割いている。例えば、30年前に開発された戸建団地は下水道の仕組みがない場合も多い。個別の浄化槽ではなくしっかりとした処理能力を備えた下水道の敷設はなかなか進まないし、そもそもその団地に行政が投資する気がないために敷設される計画すら曖昧である。もちろん景観のための電柱地中化などは構想すらない。もちろん公営バス路線なども縮小というなの廃線が相次ぎ、利便性は向上することはおろか低下するばかりである。道路が痛んでもアスファルトのしき直しが行なわれる様子もなく、道路標示も消えかかったままである。もちろん団地の入口に安全のために信号機を取付ける様子もないし、学生の登下校の安全確保のために歩道を作る計画もない。そして極めつけは、この既存戸建団地を市街化調整区域に指定するという暴挙に出る。すでに市街化している、または開発が済んでいる場所を、市街化を抑制する地域に設定するということは、なるべく人がその場所に移り住まないようにして、消滅するように圧力をかけ続けるということである。行政サービスを向上させないばかりか、低下、またはそもそも対象地域を消し去ろうとしているわけである。これはとても効果的で、市街化調整区域であるために住宅ローンが受けられなかったり、不動産の市場価値が半減したりする。こうして郊外戸建団地の第二世代はろくな資産も相続できないためにそれを元手に新しく条件のいい物件を探すこともできないため、みな一様に自力の住宅ローンだけが予算となる。こうして予算3000万円が自動的に限界になり郊外の多様性を失わせる。

 こうして既存の戸建団地がどんどん活力を失い衰退していくようにしむけておきながら、地域の不動産業者や工務店などがからの市街化調整区域の開発許可をどんどんおろしていく。すると新しく開発された新品の不動産がたくさん供給されるのだが、これと同時に行政の予算を振り分ける先がどんどん薄まっていく。この流れはもちろん行政サービスやインフラの向上ではなく低下の方向であり、今後極端な人口減少と少子高齢化が目前の日本においては郊外戸建団地の状況が向上する余地がないように思われる。

 また、郊外において移動は大きな問題なのだが、これが改善されることはほとんどない。もちろん都市部の満員電車も改善される様子はないのだが、人口密度の低い快適な郊外であるはずなのに意外と各所で渋滞が起こっている。特に朝夕の通勤時間には交通が集中し、多くの交差点で渋滞が起こる。通常であれば自動車で30分くらいで着く距離が1時間くらいかかってしまう。これが満員電車と大きく違う点は、たどり着かないということである。電車であればいくら混んでいて不快な車内であろうと、パニックが起こらない限りは平常時と同じ時間で目的地までたどり着く。ここに生活の停滞はないし、余計な費用もかからない。しかし、自動車の渋滞は一日24時間の限られた貴重な時間を余分に使わせ、また、余分なアイドリングによってガソリンも多く消費する。予定通りにいかないためにキャンセルされる予定も多いだろう。自動車の渋滞はただ不快なだけではなく、実際に多くの資源の無駄遣いが起こってしまう。そして、行政はこれを改善することには積極的ではない。新しい商業施設ができたり、バス路線が減ったり、新しい住宅地ができたりと道路の利用実態は年々変化している。一年のうちでも季節によって混む道もあれば車が全く通らなくなる道もあるだろう。想像してみてほしい、夜9時頃ともなれば車の往来がほとんどなくなる市内の国道に出るために赤信号で待っている車を。気をつければ事故の可能性はとても低いのだから、国道側の信号を基本的に青信号として、交差してくる道を黄色信号の点滅にすれば良いのではないだろうか。そうすれば、誰を待っているわけでもないのに田んぼの中の交差点で所在無さげにぽつんと青信号になるのを待っている車をなくすことができる。逆に朝夕の通勤ラッシュになぜ国道の信号を赤にする必要があるのだろうか。通勤ラッシュはたかだか1-2時間程度である。その間だけでもメインの通りはいっさい赤信号の必要がない状態は作れない物なのだろうか。事実信号のない路地やコンビニエンスストアの駐車場から国道へ出てくる車がいるわけなので、問題があるとは思えない。国道へ出るまでは混雑するかもしれないが、それは今も同じ状況である。また、どうして複数人を乗せている自動車、またはバイクを優遇する方式をとれないのだろうか。アメリカのカリフォルニア州のハイウェイでは、複数人を乗せている車しか走れない優先レーンがある。これは環境に配慮したための施策であるが、車に一人しか乗っていない人達が相乗りをして2人ずつ乗れば渋滞の距離は半分に、3人ずつ乗れば1/3になるのだ。近所に住んでいる同じ職場の人達が一緒に通勤するだけで渋滞の距離が1/3になったとすれば、人口減少を考えるともう気になる渋滞等なくなるだろう。渋滞がなくストレス無く移動できること、なぜ行政は実現しようとしないのだろうか。

 これは至る所で見受けられる問題で、そのために全てが郊外の生活の魅力を低下させている。例えば公立高校の空調。何を考えているのか夏場の冷房設備を設置することに消極的な自治体が多い。子供だろうと大人だろうと暑すぎれば不快なのは疑いの余地はないだろう。それをなぜ子供達は我慢して当然だとするのだろうか。例えば公共施設の維持管理。外壁は薄汚れて汚らしく、内装もボロボロ。市役所のインテリアは書類がまとめきれないのか通路を塞ぐように収納棚がおかれ、そこかしこにいつの物かわからないような貼り紙が貼られている。備え付けられているベンチの座面も破れたまま、パイプ椅子もパイプ机もそこかしこがぼろぼろと欠けていてみすぼらしい。そんな状態の施設をたくさん既に抱えているにもかかわらず、なぜか新しい施設や建物、または公園や地区を整備しようとするのだ。彼らにはリニューアルという考えはなく、維持管理や快適さの向上という考えはないようだ。こうして使いにくい施設や道路はいつまでたっても使いにくいままなので、最新の機能や技術で作られた新しい地域と比べればさらに魅力が落ちていってしまう。こうしてみると本当に郊外は手のつけられないどうしようもない状況のように聞こえるかもしれない。しかし、この状況は意外なことに功を奏するかもしれない。つまり、問題は郊外が今まで全くといって良いほどアップデートまたはバージョンアップされてこなかったということではないだろうか。スマートフォンやPCならば毎年マイナーバージョンアップが、数年であれば大きなメジャーアップデートが行われているだろう。それに比べれば、郊外は開発されてから概念や基本的な使われ方などはほとんど変わっていない、建物やインフラだけでなく地域の結びつきも弱まり、状況はアップデートどころか悪くすらなっている。PCの溜めに溜め込んだアップデートを更新するように、郊外戸建て団地も次の姿に更新されればいい、ただそれを待っているだけだろう。それには、郊外は今まで手がつけられてこなかった分だけ変えやすい。実際に、地方都市の郊外にある我々のような小さな建築設計事務所でも、少しづつではあるが着実に変化を起こすことができているのだから。

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