KOUGAI DANCHI OF TOMORROW

03

積極的なドーナツ化

AmazonとAEON MALL/東京を避ける/次に来る産業

03

積極的なドーナツ化

AmazonとAEON MALL/東京を避ける/次に来る産業

AmazonとAEON MALL

 郊外における1hの壁を考えると、現在千葉県や茨城県、または埼玉県や神奈川県の一部地域では、需要のなくなった郊外戸建団地が大量に出てくることが予想される。各地方都市が縮小して雇用が減ることが人口減少の予想される日本においてはある程度確定しているからだ。つまり、地方都市から1h以内の立地として成立していた地方都市に対する郊外戸建団地は、雇用が残る場所である東京23区などに対しては1hの壁に阻まれて郊外として成立しなくなってしまうのだ。もちろん人口が減るために世帯数も追いかけるようにして減る。もしくは世帯数は伸びたとしても世帯の構成人数が減るために必要な延べ床面積が減少する。もちろんすでに現在の人口や世帯数だけでも住宅ストックは大幅に余っているのだから、生活の場としても観光地としても役に立たない中途半端な立地の戸建団地群が、需要を失い行き場を失うのである。

 これは実際のところ未来の話ではない。現在作られてから40年前後の戸建団地は住宅の着工数から東京圏だけでも470万件以上あり(国土交通省2016年度建築着工統計調査報告)、その中でも千葉県などは半島なので目的地や人の往来が期待される五街道のような流通を持たないために、千葉市や京葉工業地域の郊外として今までは成立していた市原市や袖ケ浦市、木更津市、君津市、そして千葉市の若葉区や緑区などで、売るに売れない空家が増え始めている。そして、空き家予備軍としての独居老人の世帯や、子供世代が別の場所に自宅を購入して定住してしまっている世帯の数を考えると、次の10年で、多くの戸建住宅が、相続されても売値よりも解体費用や登記費用の方が高くつくような物件になり、そのため子供世代から放置され、ついには兄弟同士で意見が合わないまま売買も賃貸もできない空家となる運命にある。にわかには信じられないような状況だが、現にkurosawa kawara-tenでも不要になった空家を譲り受けている。つまり、2018年現在でも、郊外戸建て団地で廃れ始めているところの物件価格は、30坪3LDKの庭付き一戸建てが築40年とはいえ数万円で購入できるようになっているということだ。

 あらゆる地方都市や現在すでに存在している日本の街並みは、ここ十数年の社会の変化やテクノロジーの進化についていけなくなっているし、また今後もついていけるようにはなかなかならないのではないかと感じている。東京都市圏の街づくりや都市開発または行政の仕組みは人口が増えていたときと考え方ややり方があまり変わっていないため、基本的には公共的な何かを作ることを考えている。もう既に自分たちが持っているとはあまり考えない。そもそも、建物やインフラなんていうものを、少し古くなったから取り壊して捨てるということができるという考え方が人口や経済が右肩上がりな考え方だろう。あくまでリソースは無限に供給されると考えているようだ。そして、イノベーションを起こす仕掛けや努力がない。もしくはあまり効果が期待できるようには仕掛けられていない。そして、これらの都市が変わっていくのは、経済が停滞したり若年人口が減ったりすることで強制的に立ち行かなくなったビルやデパートなどのショッピングエリアがどんどんと代謝されていき、空きテナントや空き物件が増えて更地になる。これによって駐車場が増えた駅前や歯抜けの商店街などが急速に増えていく。商売のエリアは栄枯盛衰がはっきりしているし、ダメになった場合にはすぐにどこかへ立ち去らなければいけないので、実のところあまり問題は大きくないのだが、そのエリアの活気を求めて居を構えた人たちは、もうかつての利便性や賑わいを享受できなくても、そこから立ち退いて他に移ろうという人は多くない。だからこそ、住宅地は現在大量の空家が出た後に活用の見込みがないという大問題に直面しているのだし、この住宅地の次の姿を未だに行政は描いていない。今後住宅地とはどうあるべきかなどの議論すら見えてきていない。

 しかし、これは悪い話ばかりではないように思う。相続する子供世代がしっかりと不要であることを表明して我々のような建築事務所ないしは不動産屋に預けに来るか、もしくは相続させる親世代が子供にその家がいるかいらないかをしっかり確認して、不要であれば自身が亡くなるか不要になった時点で必要だという人に譲るように計画をしておく、これさえしてもらえるのであれば、庭付き一戸建てが水道や電気などのインフラも整っている状況で格安で手に入るのだから、こんなに素晴らしいことはないだろう。建築家や芸術家、もしくは色々と企んでいる人というのは結構多くいるし、そんな人たちは試しに何かできるところや、実践ができということがとても嬉しいはずだからだ。

 正直なところ、現在郊外と都市部とでは手に入る物質的な物に関してはあまり違いがない。むしろ郊外の方が地価に応じて食品などの価格は安いくらいで、その他に書店やデパートなどにしか今までは売っていなかったものも、AmazonとAEON MALLがあるためいとも簡単に手に入ってしまう。

 音楽もCDだったころにはそれなりに大きなレコード店に行かないとメジャーな歌手以外のものは手に入らなかったが、現在はApple musicやSpotifyに契約すれば、世界中のあらゆる音楽が家に居ながらにして手に入る。もちろん映画もレンタルしに行く必要すらない。そして、テレビ局のように地方の番組が見られないなどの地域差すら、NetflixやAmazon primeビデオの登場でなくなった。体験型の消費や活動だけはVRやMRなどの技術の向上がもう少し待たれるところだが、それはむしろ、月に一度東京に出さえすれば手に入る。それですら、LCCの路線拡大によって日本中が1万円くらいで往復できるようになっているため、関東圏にいることすら必要条件ではなくなりつつある。

 そうだとすれば、人生で使える所得のうち、5千万円を汎用の新建材しか使っていないような住宅の購入にあてなければいけない都市部と、タダ同然で購入した中古住宅に1千5百万円ほどかけて自分の好きに無垢板や石などの質感の良い素材と建築家に設計料をちゃんと払ったリノベーションをして暮らすのでは、単純に考えれば3千万円ほど自由に使える金額が増えることになる。もしくは、3千万円は稼がなくてもいいことにならないだろうか。3千万円自由に使えるということは、1回の家族旅行でハワイに行って50万円使ったとして60回行くことができる。年間に2回行っても子供達が結婚するまでの30年間ずっと行けるだろう。車が好きな家庭なら300万円の新車に10回乗り換えることができる。一台5年乗ったとすれば50年は楽しむことができるだろう。1千万かけた家のリフォームを3回することができる。マンションならスケルトンにして0から間取りを変えることができる予算なので、家は3回建てないと満足いくものができないという言葉通りなら、4回やりかえるのだから確実に満足して人生を終えることができるだろう。もちろん、3千万でもう2軒家を好き勝手リノベーションすることもできる。もし隣の家を買うことができれば、ものすごく広い豪邸に暮らすこともできるだろう。もしくは、広々とした庭で隣家に干渉されずに暮らすことも夢ではない。3千万を稼がなくてもいいのであれば、年収600万の人なら5年は早くリタイアできる。時給換算にして考えてみれば、おおよそ40年ほど一日7時間の勤務でよくなる。22歳で働き始めてから62歳まで毎日16時にあがってもいいのだ。20年にすれば、42歳以降は15時に上がってしまえる。

 つまり、今まで先人が築いてきた遺産としての住宅ストックを、価値がなく取り壊さないといけないものと、どこかの誰かが勝手に決めているから無用の長物が行政の予算を圧迫して、住民の環境を悪くするという話になってしまうのだが、実際のところ建築産業に対して冷たい見方をすれば、特にハウスメーカーや新築マンションのディベロッパーだが、今から一切新築住宅を建てなくても日本は大した問題はないという事実をもう少し広く一般の議論の下地にしてはどうかと思う。見方を変えれば、日本は世界でも珍しい居住に関してコストがほとんどかからない国になれるということではないのだろうか。もちろん、中にはその時々で賃貸してでもある特定の場所に住まなければいけない人というのもいるので、実際には皆がタダで住めるということにはならないだろう。それでも、毎月10万円ほどの家賃や住宅ローンが消えて生活のなかで使われるようになったとしたら、しかも人々は住居を失うリスクを感じることがないとしたら、もっと消費も増えるかもしれないし、建築設計や芸術などの単純に機能やお腹を満たすものではないものにお金を使えるようになるかもしれない。日々の生活の余裕から生涯学習や文化的な活動量が増えるかもしれない。子供を2つ目の大学に通わせることができるかもしれない。就職だって家を買わなくても良くて失わなければ、もしかするとそんなに大きな会社に入る必要がそもそもないかもしれない。週休3日でもいいかもしれないし、満員電車なんて乗らなくてもいいかもしれない。それでも、どれほどに生活の質が落ちるだろうか。

東京を避ける

 こうして郊外が都市部と比べてとても有利な状態になってくることを、さらに有利にしてくれる状況が現在すでに起きている。それは、東京がとても魅力を失ってきていることだ。東京だけではない。横浜、千葉、大宮、それぞれの地方都市の中心部にはユニクロやH&Mといったファストファッションが銀座の目抜き通りや老舗デパートに入り込んでいる。(この文章を書いている間にH&Mは銀座から撤退したのだが、それはもしかするとライフスタイルの変化の予兆かもしれないと感じていたりもする。)中心街を歩いていて休憩しようと思えばどの街でもスターバックスかドトールに入ることになるし、大都市でしか食べることができないと思われるような目新しいメニューはファミリーレストランが数ヶ月遅れだが提供してくれる。

 東京や大きな都市が今まで持っていた個性や特別感は、むしろその都市の方から放棄しはじめ、得られる物的な内容は、大きな郊外と化している。質的には郊外、量的には都市、そんな質的な、文化的な空洞化が大都市で起きているのである。これもまた、インターネットで世界中の情報が時間のズレもなく得られるようになったことが大きな要因だろうと考えられるが、今までのようにニューヨークで流行っているものを日本人のフィルターを通してアレンジして東京で展開するような個性の発露は見られずに、ニューヨークで流行っているものをそのままダイレクトに東京でものまねすることができるようになってしまったことが、都市の真似をする消費地としての郊外という構図に、そのまま、先端都市の真似をする消費地としての東京に変容してしまったのであろう。

 そうであれば、その東京の郊外は東京やその他の大都市を見る必要はなくなったのではないだろうか。東京は世界の先端都市のものまねや二番煎じや廉価版なのだから、インターネットやLCCで直接オリジナルを見に行けばいいだろう。そして、そろそろ皆が気付き始めているはずである。世界中どこへ行ったところで、この資本主義が行き渡たり、文化も多くが共有され、衣食住やライフスタイル、価値観に関してあまり違いがなくなっていることを。流行りのスタイルもいつかどこかで見たことがあるものだし、食べ物だって根幹の部分は変わらない。SNSでどれだけ流行に乗っていることをアピールしても、一瞬だけ注目を集めても、隣にいる大切な人は全く無関心だろう。だからこそ、実際に行くことや体験することや、家族や友人と日々良好な気持ちの良いコミュニケーションをとること、そして心が満たされていること、自分の人生の一部または全部に積極的に関わって、時間を共に過ごしてくれる人を得ること、そして、新しいものを創り出すこと。そろそろ皆結局のところそれしかないということに気が付き始めているのではないだろうか。

 気が付いていても行動に表れるかというとそれは直接的に結びついているわけではないだろう。今までの生活、今までのやり方、今までの関係性があるのだから、すぐに現在の生活を捨てて違う生活を送れるものでもない。それでも、よく東京にあるものや東京で起こっていることを観察してみるといいのではないだろうか。いくつかのデパートやセレクトショップに行ってみる。ブランドのタグ以外は何が違うのか、そして、どれくらい同じものが違う場所に置いてあるのか見てみるといいだろう。本当にそこでしか手に入らないものや、そうではあっても似ているものだらけだと気がつくだろう。カフェやレストランに入ってみる。できるだけ高級だと言われているところや、もしくは、何かの採点で好成績を残しているところがいいだろう。確かに美味しいかもしれない。でもそれは本当に自分の住んでいる、または出身の町で、自分の家のキッチンで味わうことができないようなものだろうか。そして、それはわざわざ写真付きで友達に報告する必要があるような、もしくはそれを見た友人が心の底から憧れるようなものだろうか。そんなものは毎日口にしなければならないようなものだろうか。そして、そんなスペシャルは毎日である必要はないはずだろう。年に一度ニューヨークへ行くのではどうだろう。むしろ、東京がそんな場所でもいいのではないだろうか。普段から東京に所属していなくても、たまに必要なことがあるとき、もしくは日帰り旅行の行き先の選択肢の一つとして、もう少し東京が以前のようにまた輝き始めることがないかぎりは、郊外やまたその先の遠いところから、少し距離をとっているのがかっこいい状態が続くだろう。初めはとても怖いのだが、また確かに、いくらダサいと言っても東京の力はものすごいので振り切ることは容易ではないのだが、一度抜け出してみてはどうだろう。まずはすでに東京を出た人を見つけること。もちろん他の地方都市も同じなのだが、すでに出た人で自分のモデルになるような人を見つけることができれば、初めの一歩が楽になるだろう。ここから重要なのは、いかに自分自身を充実させることができるかだろう。例えば、郊外に移り住んだ先がもともと空家だったとしたら、色々と手を加えて自分自身の気に入った空間を作ることができるだろう。庭もある。しかし、移り住んでから、もしすぐに忙しくなってしまったとしたら、あまり気に入っていない自分の周りを気にしながら日々を過ごすことになってしまう。自分の家や周辺をすごく気に入った状態にすることは、都市や郊外といった場所の影響をキャンセルする一つの条件だろう。もう一つはお気に入りの場所を見つけることだろう。できれば東京にないような。風に揺れる田園風景でもいいし、森の小道でもいいし、団地の夕景でもいい。都市部ほど自分がカーテンウォールに写り込んで悦にいることができる場所は少ないかもしれないが、誰かに写真でも撮ってもらえれば、きっとそこにいる自分がかっこいいと思えるお気に入りの場所が見つかるだろう。そして、一番重要なのは近い感覚をもった気持ちの良い関係が持てる人と出会うことだろう。独りで何かを続けるというのはとても難しいことで、それは都市にいても郊外にいても同じだろう。逆に場所がどこであろうと、自分のことを肯定してくれて一緒にいてくれる人がいれば多少の困難は乗り越えられるものだろう。

 もしこうして都市を離れることができたら、もしくは都市との距離感がもう少し遠くなったとしたら、そんな人たちがもう少し増えてきたら、きっと明日の郊外団地は活き活きとした素晴らしい場所になるだろう。

次に来る産業

 もちろん郊外が有利なのは職の面でも可能性がある。現在郊外は職がないと思われている、もしくは良い職がないと思われている。都市部でないと大手の会社や高給の会社に雇ってもらえないと思われているのだから、現在ではその通りだろう。しかし、今の日本はあまりにも産業の構造やそれに携わる年齢層のバランスが悪すぎる状態なのは明らかで、そもそも第一次産業の割合や若年層の就業率が少なすぎる(平成22年国勢調査)。経済的には二次や三次産業が効率的で成長しやすいのかもしれないが、根本的に食べなければ生きていけない人間社会を考えれば、一次産業がまずは成り立ってしかるべきだろう。そして、一次産業が成り立つようにバランスが取られていくと考える方が自然ではないだろうか。

 1990年代後半のIT革命のように第一次産業が大きな変革とともに産業のメインストリームに返り咲くのも時間の問題なのではないかと考えている。産業の変化には国際情勢や政府の姿勢であったり、技術革新や自然環境の変化など、影響を与える変数が様々にあるため簡単な予測はできないことは前提としてあるのだが、現在世界は国際的に切っても切れない関係性ができていて、なおかつその勢力図が冷戦以降のパクスアメリカーナから大きく変わってきているのは事実だろう。そして、世界がヨーロッパやアメリカ、または日本を中心にして語ることができた時代は過ぎており、アジアや中東、そしてアフリカや南米などに対してどのように関わっていけるかが大きくその国の地位を左右する状況にある。日本の世界第2位の経済大国という称号や、第二次産業ものづくり国家の立場は、隣の巨大な世界の工場に明け渡し、第三次産業による競争力を伸ばそうとしているようだが、落ち着いてよく考えてみればこの後に進む進路として、飛躍的にサービス産業国家として成長しない限りは、第一次産業の話が出てくるのは当然だろう。日本は第二次産業や第三次産業を強化するあまり、第一次産業をないがしろにしてきたために、GDPに対する各産業の割合のなかで一次産業は1割を切るような状況になってしまっている。食料自給率もカロリー、生産額の両方で100%を切っている。国際的に稼ぐ力が少しづつ失われていけば自然と自給できていない食料を外から買って来られなくなるだろう。でも食べないといけないから作る。もちろんそれだけでなく、今後世界人口がどこまで増加するかはわからないが、現在の人口で止まったとしても生活水準やスタイルが全世界的に底上げされたとすれば、食料を持っている国が強くなるのも明らかだろう。単純に足りないものは作るという力が働くと考えれば、当然第一次産業が再注目されると考えてもおかしくないだろう。更に言えば、世界から観光客を呼び込んできたいと考えても、文化や景観はその農林水産業に根ざしたものがほとんどなので、必然的に第一次産業をこれ以上衰退させることはできないだろう。そしてもちろん、第二次産業に根ざした文化というものもあるはずなのだから、郊外にも残すべき、または続けるだけの価値はあるはずだろう。

 それらを考えると、農林水産漁業が次に来る産業としては自然であり、その産業に対して郊外は都市部と比べてとても有利な立地にある。郊外戸建団地は大概田畑や森林に囲まれているし、海にもとても近い。また、敷地も広くて野菜工場や加工場なども作ることが容易だし、輸出のための空港や港に対しても、生産地から東京などを経由しなくても運送することができる。今までは工業のための団地だったものが、農業生産法人のための団地に取って代わられたとしても、何の不思議もないだろう。いや、むしろたかだか40-50年で家や造成地を捨てて取り壊すなんてにわかには信じられないようなことで、むしろ一次産業に従事する人たちのための場所として転用されるという方が自然な姿ではないだろうか。

 今までの農家に依存した農業はその生活と一致していた。当然住居はその田畑を耕す人のものであり、また農機具をしまう倉庫であり、下準備をする作業場であり、接客をしたり帳簿をつけるオフィスでもあった。今でも多くの高齢者によって維持されているその農家という人生が次の世代は引き継ぐことができないようなのだ。そして、次世代の意識よりも先行して今その田畑を維持している人達が、自分たちの子供達には別の道を選んでほしいと考えている。今までは長男が当たり前に家業を継いで連綿と維持され、その当たり前の中で選択肢がないと思わされていたものが、教育水準が上がり、情報化、グローバル化によってどんどんと社会が現代的になっていくと、どこに生まれたかではなく、個人の意思が尊重されるようになる。それでも、先祖代々の土地や家業は捨てられない祖父母と、完全にはそれを捨てきれなかった兼業の親、そしてもう何の関係もなくなってしまい心の片隅にノスタルジーだけを持った子供によって農地は閉ざされ終わりを待っている状況にある。

 もうすでに、耕作放棄地を使ってビジネスを始めている会社や、新しい利活用に挑戦している学生達もいる。売り買いではまとまらなかったとしても、賃貸であれば今土地を所有している農家さん達も、新しく農業に挑戦しようとする人達に土地を開いていくかもしれない。そうなれば、法人の経営する労働者として田畑を耕す人達が出てくるだろう。この人達は畑に通勤してくることになる。であれば、職場に近い適度な距離の家を必要とするだろう。そんな時、郊外戸建て団地は専用住宅地としてまた蘇ることになる。しかし、今までの農業と代わり、次に来る農業は情報技術でアップデートされたものになるはずである。働き手は肉体労働者というよりは、AIで動くロボットや環境制御の機会などをメンテナンスや調整をするエンジニアが主な役割だろう。なので、今なら都市部に暮らしているような工学系の大学を出た層が、大挙してというよりは、その団地が出来た頃の数分の一くらいの人数で移り住んでくるだろう。彼らは日常的に使える気持ちのいいカフェや、ゆっくりと過ごせる素敵な公園などを求めるだろう。そんな要望に応えるために、現在は潰れてしまった店舗や、空家がそんな素敵なカフェや日用品の店になるはずである。

そんなことが起これば、自然と既存の戸建て団地は新しい産業のための住宅地として、今までよりも職住の近接したいい環境になるだろう。

 あくまでこれは、社会的な流れによって以前と同じように自然と再生していくという、少しラッキーな郊外団地の次の姿だが、近年の生活様式や産業の変化のスピードを考えると、5年から10年くらいのそう遠くない将来には、そんな場所も増えてきているだろうと考えられる。

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Kogaidanchi of Tomorrow

明日の郊外団地/若者とクリエイティブな人達/個性と多様性