紙のミルフィーユが展示商談会に出るため、
サポートでニューヨークへ行ってきました。
今回のニューヨーク滞在は、
今まで2回ほど旅行で訪れた際には感じたことのない、
何とも言えない重苦しい気持ちになって帰ることとなりました。
日本人がニューヨークと言う時には、
それはマンハッタンを指していることがほとんどだと思います。
今、そのマンハッタンは再開発ラッシュで、
特に西側で下の方のエリアは骨組み状態の工事現場だらけ、
もしくは古い建物が壊されて新しい工事が始まるのを待つ空地だらけという状態です。
ハドソン川を挟んでニュージャージーを眺めるとても気持ちのいい場所で、
展示商談会の会場もこのエリアにありました。
到着初日こそ、
その工事現場の脇をニューヨークの新陳代謝している姿だと感じながら、
ビジネスマンや工事の職人さん達と一緒になって道を歩いていることが、
楽しくワクワクするような気分だったのですが、
これを数日繰り返すうちに、
当初から感じていたちょっとした違和感が大きくなっていきました。
これは展示商談会の会場を見て回っている時にも、
外の屋台でホットドックを買ってランチを食べている時にも、
そして、ホテルの部屋の中でもずっと感じていた違和感でした。
この違和感、もしくはモヤモヤを強く感じたのは、
・ホテルのすぐ外に大量に行き交う観光客を見たとき
・500mlの水が3ドルだったとき
・再開発の建物が全てガラス張りだったとき
・1ブロックに1人の割合でいるホームレスの人達とすれ違うとき
・ブルックリンっぽいカフェがたくさんあったとき
・トレーダージョーズの中の人とジャックスの中の人を見たとき
・それぞれのエリアに最初に脚を踏み入れたとき
・ブルックリンにバーニーズニューヨークがあったとき
これらに共通するのは、
持つものと持たざるものが同時に存在している状況で、
特に持つものの何かを合理化するために、
持たざるものの何かが陳腐化されている状況だったりするのだと思います。
簡単に言えば、
噂に聞いていた分断されたアメリカの生々しい状況でしょうし、
もう少し言えば、
アメリカ的考え方が引き起こす極端な状態ということかもしれません。
頑張った人や努力した人が報われる、
もしくは他の人よりも良い思いをすることに全く抵抗はありません。
むしろそうあるべきだと思います。
しかし、
巧くやれる人が不器用な人、実直な人を自分の踏み台にするのはあまり気持ちがいいものではないなと感じるのです。
今のニューヨークはまさにそんな状態でした。
待ちを闊歩する”ヒップな”人々は自分への希望や同じようにイケてる人達との同一感に悦に入り、
その、現地人の顔をしたイケてる人達を見て同じような服を買って帰ることに一生懸命な観光客、
そして、ブルックリンの中にあるブルックリンっぽいカフェで一杯5ドルのコーヒーを出し、
どこか見たことのあるような少しだけ薄っぺらくこぎれいなホテルやコンドミニアムを買う人達。
そして、
本当に設けている人、これをコントロールしている人は、決してそこにはいないという事実。
ブルックリンが新しいアーツアンドクラフツとして流行し、
この素晴らしい変化は普遍的な価値を提供しているのだから永遠に続くのではないかとすら感じられたあの状況すら、
永遠に同じ状況なんてないんだなとずっしりとボディーブローをくらったかのように考えさせられました。